前回(生い立ち③)は、へっぽこ助産師がつらい新人時代を経て、新たな目標を見つけるまでのことを書き散らしました。
そして、結婚と引っ越しと転職を同時にした無鉄砲オタクちゃん。(無謀)
果たしてすべてうまくできることができるのでしょうか?
毎度毎度長くなりますが、あまり期待せずに読んでくれると幸いです。
意気揚々とNICUに乗り込むも…
さて、なんとなーく夫と結婚し関西へ引っ越して、新しい病院に入職した無鉄砲オタク。
新しい土地
新しい家
夫との初めての2人暮らし
新しい病院
新しい診療科(NICU)
なにもかもが初めて✨️
新しいもの好きなオタクちゃん、ワクワクしながら新生活をスタートさせました。
職場は総合周産期母子医療センターに指定されている大学病院で、NICUの病床数も12床あり、妊娠22週以降のすべての早産児や先天性疾患のある児をみていてかなり高度な医療をしている病院。
『新生児看護を学びたぁぁ〜い!』と息をまき、あろうことかまた大病院に就職してしまったことを、あとで後悔することになるとはこのときはまだ知る由もなく…_| ̄|○
同期は私のように看護師経験がある子1人と、新卒の子5人。
平成生まれと同期になりました。
『みんな若いな〜私ついていけるかなぁ〜』と思いつつ、私と看護師経験がある子ははじめからNICU、新卒の5人はGCUからのスタートになりました。
NICU(新生児集中治療室)は、早産児や病気を持つ新生児の急性期治療を行う場所。
GCU(回復治療室)は、NICUで状態が安定した赤ちゃんが、退院に向けて育児指導を受けたり、退院後の生活に向けて成長を促す場所。
経験があるって言っても産婦人科病棟の助産師の経験しかないから、呼吸器つけた子をはじめからみれるわけもなく、NICUの中でも呼吸器を付けていなくて比較的状態の安定している子から担当することになりました。
はじめは見たこともない処置や治療に興味津々✨️
『児の挿管ってこういう風にするんだ!』とか、
『輸液ポンプ、どんだけあるん!』とか、
すごいな〜と思いつつワクワクしながら先輩の後ろについて回る日々。
でも・・・
いざ自分が受け持って看護する立場になると、正直全っっ然分からなくて。
早産児の病態が分からないから、参考書を開いて勉強するけど、本に書かれてあることと実際に目の前にいる子の病態を一致するように考えるのが本当に難しかった。
NICUに入院する子は1つの病名だけでなくて、いくつもの病態が複雑に絡み合っていることが多いから、それらを繋げて考えて看護するって本当に難しかった。
『正常産からの逸脱がないか』の見極めをする助産師とは全く違った方向からアプローチするから、その考え方の違いにやられてしまって。
『修正32週の児。今、この子はどういう状況で、何の点滴がいってて、何の治療している?この子にはどのような看護がふさわしい?お母さんが面会に来たらなんて声かける?早産で生まれたことで、これから起こりうる注意すべき合併症は?』
・・・
私ってこんなに勉強の仕方を知らなかったけ?
助産師3年間した日々は、なんちゃってだったの?
『できる!』って謎の自信持ってここまで来た自分が恥ずかしい…
また自己卑下のループ。
『集中治療室』と言うからには、重症の子が多く責任が重く感じて当然。
しかも、今まで接していた成人とは違って体重の小さい子の治療って、数センチ単位のチューブ固定だったり、数ミリグラム単位の点滴投与が常なので、細かくて繊細。
大雑把な私にとっては、相当神経使いまくって正直それもきつかった。(1番きついのは赤ちゃんね!)

それに加えて頭のなか整理できていないオタクなので、カンファレンスとかでうまくまとめられず、シドロモドロ。
せっかく関西まで出てきて夫も連れてきたのに、妻としてもちゃんとできてないし、申し訳ないなとも感じていて。
朝、病棟にあがる階段を一段一段登りながら、
『今日で入職してまだ3か月。早く時間が経たんかな…』
と思いながら、重い足を動かして病棟に上がる毎日でした。
そして、入職して半年後に事件は起きました。
その日、担当していた赤ちゃんは3人。
授乳やおむつ交換や点滴管理など、あくせくしながら必死で業務にあたっていました。
必要時にフォローができるように、先輩は横目で気にしてくれていたようですが、私は自分の力量を正確に測れず先輩にヘルプを出せずにいました。
そして、なんとか最後の1人の授乳を終えてベッドに横にしたのですが、その時に点滴ルートがだらりん‥と途中で途切れてぶら下がっていました。
『え!?ルート接続部が抜けてる!?なんで?!』
『やってしまった!!!繋げなきゃ!』
と、パニックになり慌ててフラッシュして繋げようとしたところ、横にいた先輩に、
「いや!あかん!!」
と手を止められ、『ハッ!』とした私。
『そうか、メイロンをそのままフラッシュしたらいけんよね。』
『てか、なんでルートが外れた?さっきの授乳が原因?』
『え?なんで?私が原因?なんで外れた?』
と、頭の中グルグルして固まってしまいました。
その後の点滴の事後処理は、先輩が一緒にやってくれたけど…
赤ちゃんにもお母さんにも先輩にも主治医にも全てに申し訳なくなり、情けなくて仕方なかった。
その後、赤ちゃんに影響はなく事なきを得ましたが、勤務後にその先輩が話を聞いてくれました。
メソメソする私に、
「Ponちゃんがいつヘルプを出すか、気にしていた。」
「できないことはもっと他に頼っていい。」
「この失敗をどう次に繋げていくかが大事。」
とアドバイスしてくれて、ごもっともですとしか言いようがなく…
全く私、何年目だよ…と自己嫌悪。
その次の日は休みだったから、夫が気晴らしに松坂城まで連れて行ってくれましたが、全然楽しめなかった。
『仕事のストレスは、仕事で解決するしかない。』
って、誰かが言っていたけど本当にその通り。
現実逃避しても楽しめないし、いいことない。
向き合わなきゃ…
でも、正直もうNICUは怖い
赤ちゃんの病態が分からない
勉強も進まない
挿管してる重症の子をみれる自信が全くない
周りにヘルプを出すタイミングが分からない
赤ちゃん嫌いになりたくない
赤ちゃん好きだったのにな
赤ちゃんの勉強したかったのにな
先輩看護師はみんないい人ばかりだったど、もうNICU側は怖くて無理かも…
ミルク係(赤ちゃんが飲むミルクや搾乳を準備する係)が、1番いい
赤ちゃんに接しなくてすむから
何のためのNICU勤務なんやろ…
そんなことばかり考えて、前を向くことができず逃避に走っていました。(怖いんだったらもっと勉強したら良かったのに当時の私には無理だった)
そして、その思いを看護師長に相談したら、GCUチームに行かせてくれることになりました。
フォローしてくれた先輩にも申し訳なかったけど、自信もヤル気もなくなってしまいました。
GCUはNICUと違ってある程度、状況が安定した子が多いので(呼吸器とかつけてない、授乳も自律授乳が主)、NICUのときに比べて割と落ち込むことは少なかった。
けれど、出産もしたことがなければ育児もしたことがない私に、退院後の生活を含めた育児指導や支援なんてさっぱりで。
正直、私が教えて欲しいくらい。

ここでも先輩のアドバイスをもらいながら、なんとか頑張ってしましたが…
ある夜勤の時、赤ちゃんに授乳しながら、
『あ、もうこっち(GCU)でも無理かも。』
と思ってしまいました。
そして、とうとう泣きながら、
「もうGCUでも無理です。辞めさせてください。このまま行くと(私のミスで)赤ちゃん殺してしまいそうです。」
と、看護師長に相談しました。
師長さんは優しく話をきいてくれてなだめてくれたけど、もう無理だって私の心は決まっていました。
だから、看護部と相談してくれて「産婦人科外来に異動してみない?」と提案してくれました。
これ以上、迷惑かけるのも嫌だから、本当は一旦退職してから次のキャリアを考えるつもりだったけど、「ここでPonちゃんのキャリアが途絶えるのも勿体ないから。」と説得してくれて。
そして、急にも関わらず産婦人科外来に異動することになりました。
ここまで入職してからわずか10か月の出来事。
当初の目的だった、
『赤ちゃんのことについてもっと勉強したい。赤ちゃんについてもっと知りたい。』
という目標は達成できず逃げる形になりました。
何のために九州を飛び出して関西にまできたのか…
同期や先輩方にも迷惑かけちゃった…
関わった赤ちゃんやお母さんたちにも申し訳ない…
夫を連れ回してこの結果って情けないな…
いろいろな感情が湧き出ましたが、もう限界でした。
でも、この10か月の経験があったから早産児がどのような経過を追って成長していくのか、多少なりとも勉強になりました。(無呼吸発作とか脳室内出血とか壊死性腸炎とか未熟児網膜症とか貧血・黄疸・低血糖…たくさん勉強できた)
そして、鬱々とした私にも優しく接してくれた同期や先輩方に感謝です。
担当させてもらった赤ちゃんとお母さんもありがとうございました。
皆、無事に成長していますように…

【まとめ】
無鉄砲オタク、NICUで玉砕し人にヘルプを出す大切さを学ぶと同時に、己の実力不足を知る。(言わんこっちゃない)
産婦人科外来へ異動、そして第1子出産
さて、NICUから産婦人科外来に急遽異動になった無鉄砲オタクちゃん。
産婦人科外来側も急遽すぎて(金曜に異動を申し出て、翌週月曜から産婦人科外来で勤務することになった)、バタバタしてスタッフさんも『エッ?』って感じでした。
だから申し訳なかったけど、私がNICUで玉砕したのを知っててくれて、
「NICUか〜。大変やったやろ。外来は忙しいけどええよ〜。」
と優しい言葉をかけてくれ、泣きそうになりました。
子育て中のママさん看護師&助産師ばかりで、関西人特有のワイワイガヤガヤとおもしろい人が多くて、医師たちもノリが良くて楽しい外来でした。(「オッケー👍️ほな、行こか〜!」くらい軽いノリ)
しかし、ここは大学病院ということもあり、『婦人科・産科・生殖』の3分野でかなり高度な医療をしているところ。
来院する患者さんも多く、とにかく毎日走り回ってバタバタでした。
でも、NICUにいた時に比べて精神的にはかなり安定して働けました。(古巣の産婦人科だし)
私は主に、産科外来と生殖外来と産婦人科処置室を交代で担当。
まわりの先輩スタッフを見習いながら、医師の診察に付いていくので必死でした。
でも、初めて病院に来た患者さんにとって、病院の顔となる外来で働くことの面白さややりがいを少しずつ感じられるようになって。
短い外来時間の中で、
いかに患者さんのニーズを拾えるか
効率よく動けるか
他スタッフと連携がとれるか
ある意味一期一会的な要素もあるので、場の空気を読む、表情や言動から状況を判断するなど、教科書には載っていない実践での経験を積むことができました。

しかも異動してすぐ、2ヶ月後には結婚式を控えていたのでそちらの準備もバタバタで。
何度か九州に帰り打ち合わせをしたり、前撮りをしたりと大忙し。(それは自業自得)
そしてその年の3月に地元で結婚式を挙げましたが、正直つかれた…(おい!)
みんな楽しめたかな?
ご飯美味しかったかな?
雨で申し訳ないなぁ。。。
とか気になり、今さらだけど『私、自分が主役になるの苦手かも…』と思う始末。
でも、大切な人がこの日のために集まって祝ってくれて、それは嬉しかったしありがたかった。
参列してくれた親戚・友達・関係者の方々、本当にありがとうございました。
そして結婚式後、すぐに妊娠が判明。
正直、早すぎて『あらまぁ〜』と思ったけど、それはやはり嬉しかった!
実はずっと基礎体温を付けていて、体温が高いままだったからもしかして!?と思って妊娠検査薬をしたらビンゴ!
『妊娠したら、本当に高温期が続くんや!』
って、妊娠の事実よりそっちに感動✨️

そして物は試し!と思って外来でこっそり自分でエコーしたら、胎囊(赤ちゃんの袋)が見えて、
『おぉ!これは!妊娠5週相当のGS(胎囊)!』
とウハウハしました。
妊娠中にいろいろ自らの体の変化を実感していくのが楽しかったw

自分の病院で妊婦健診を受けるのはいろいろと恥ずかしかったので、近くの産婦人科で診断してもらって、出産予定日は12月25日のクリスマス🎄
でも、外来は不妊症治療をしている患者さんもいたから、なんとなく不妊症患者さんの前では申し訳なく感じて、大きくなるお腹を隠すのに必死でした。
大きめの白衣を着てなんとか誤魔化しながら勤務していました。(マタニティ用の白衣はバレバレだから最後まで着なかった)
産婦人科外来というだけあって、まわりのスタッフさんも優しくて(異動して割とすぐの妊娠だったので、申し訳なかったですが…)、順調に産休まで働くことができ感謝しかありませんでした。
つわりはほぼなくて良かったのですが、むしろ食べづわりだったので、いつもファミチキとマックのフライドポテトをモシャモシャ食べていました。
そして、胎動を初めて感じたのは妊娠16週ころ。
テレビでゲド戦記を見ていたとき『…うにょ、、ウニョウニョ…』って、お腹の中でなんか腸蠕動とは違って、陸に釣り上げられた魚がピチピチ動いているような感じがして、
『おぉ!これが胎動かー!おもろ!もっと動いてたもれ♡』
と思いました。
あと、妊娠中期以降になったら胎向を確認してマイ聴診器をお腹に当て、赤ちゃんの心音を聴き
『おぉ〜!生きておる♡生きておる♡』
とニンマリしていました。

妊娠中の偏食って面白いな〜
妊娠中の体の変化ってすごいな〜
つーか、本当にお腹がつっかえて足の爪が切れんw
トコちゃんベルト、神やな✨️
しかし、お腹の中で自分とは違う生き物が育ってるって、なんか不思議だな〜
と、いろいろと自分の体で体感してみて妊娠の神秘を実感しました。
そして、2011年末に長男を出産。
里帰り出産をしたんですが、その時に出産を手伝ってくれたのが、新卒で就職した病院で同期だったTちゃん✨️
しかも、出産したクリニックは助産学生時代に実習したフリースタイル分娩をしているクリニック✨️
『自分が出産するなら絶対にここのクリニックがいい!』
と心に決めていたので、夢が叶いました。
助産学生時代はあれだけ『助産師もう無理。辞めたい。死にたい。』と思っていたのに、違う意味で死ぬ思いをしながら同じクリニックで出産するなんて…変なのー。
そしてここでも、オタク発動!
『助産師なら自分の分娩進行は、自分で診断してなんぼやろ!』
と思って、陣痛が10分間隔になってきたら、自分で内診して、
『まだ3センチ開大か…展退(頸管の薄さ)はまだまだ…こんなんじゃ生まれないな…』
と、家でもう少し進むまで陣痛に耐えていました。(自室で1人、陣痛間隔を計るために時計片手に、息を潜めて。たまに聴診器で児心音チェックしながら…クックック)

そして、朝方に陣痛間隔も短くなり痛みも増してきて、内診したら、
『5〜6センチ開大…展退はペラペラ、子宮口は前方…もう行ってもいいよね!?もう痛くて限界やっ!』
と思って、クリニックに電話したらTちゃんが出てくれて、
「Ponちゃん、無理せんでいいよ。早くおいで〜?」
って優しい声で言ってくれて、その声に安心して本当に助産師って人柄が大事だなって思いました。
クリニックに到着したときには結構進んでいて、動けなくなるくらい痛くて客観的に助産師目線で、
『あぁ、なるほどね〜、これくらいの痛がり方で声が出るんやったら、初産やけどここからはそんなに時間かからんやろうな〜』
って、わりと冷静に状況判断。
しかし、痛いものは痛い!
自分が助産師であるなんて、最後の方は遥か彼方に忘れ去られていて、終いには、
「うんこうんこうんこーーーー!!💢💩💢💩💢💩」
と、謎のうんこ連呼してお産しましたw(食事中の方いたらごめんなさい)
いや、、、その冗談じゃなくて本当に感覚的には直径10センチの巨大うんぴーが挟まってる感覚でしたん。。。
でも、陣痛を経験して初めて本当の意味で産婦さんの気持ちが分かりました。
お腹も腰もお股もどこもかしこも激痛いのに、仰向けになって足縛られるなんて私には無理ゲー。(今まで分娩台で縛り付けていた産婦さん、ごめんなさい…)
ずっと四つん這いで過ごして、最後も四つん這いで産んで、可愛い長男とご対面!パンパカパーン👶✨️
でも出生直後、上手に呼吸ができてなかったから、Tちゃんに吸引してもらって私が背中を刺激して呼吸を促すと、やっとオンぎゃー!と元気な産声を聞かせてくれた長男。
生まれたときから、おっちょこちょいというか何というか…まずは呼吸しよか?汗
結果、クリニックに到着してから2時間で生まれました!
生まれた長男の顔を見て、1番はじめに思ったこと…
『…え?まゆげ、凛々しすぎん?』
『あ〜これから30年間くらいはこの子の親か…責任…重っ!』
という、感動とは無縁の感想でした。(賢者タイムか?心どこ行ったん?)

そのあと、胎盤が出るのはすごく気持ち悪かった。
だって約500gの臓器が子宮から剥がれて、ズルリンと出てくるんやもん。
普通に考えて恐ろしい…
『母は強し』とはよく言ったものです。うんうん。
余談ですが、肝心の夫はなんと前日に飲み会に行ってて(私だけ九州に里帰りだったので)、朝に何回も連絡したけど繋がらず。
念のため前日に「前駆陣痛みたいなのはきてる」って伝えていたんだけど、まさか飲み会に行くとか…
立ち会いしたいって行ってたのに…
って、本気で恨みました。(妊娠中の恨みは一生続くYO!)
結局、夫は出産には間に合わず。
でも、Tちゃんのサポートもあり本当に満足のいく良きお産となりました。(夫は恨むけどな💢2回目)
Tちゃんに感謝✨️
クリニックの食事は、母乳がしっかりでるように母親の体に合うように、野菜たっぷりで和食メインのご飯で、とっっっっっっっってもおいしかった!
おいしすぎてそのレシピをもらって帰って、そのメニューを母に作らせるという鬼畜っぷり。(産後あるあるですYO!)
あと、ちょっと恥ずかしい話ですが私、完全母乳を希望していたけど貧乳すぎて、多分添え乳ができない乳房タイプって思っていたんですが…
ふふふ…
あざむいてやったさぁぁぁ!!
クリニックの助産師さんに介助してもらって、添え乳に成功✨️
味を占めた私は、自分が楽できるように生後まもなくからずーーーーっと添え乳をしてました。
寝ながら授乳できるって、休憩にもなるし快適でした!(もちろん子どもが窒息しないように注意は必要ですが)
陣痛は本当に鼻からスイカで巨大うんぴー案件でしたが、自分が妊娠・出産を経験して教科書に書かれてあることをたくさん実感できて面白かったです。ふふふ…
【まとめ】
無鉄砲オタク、外来看護の難しさと面白さに気づき、自らの妊娠・出産では数々の人体実験により生命の神秘を実感する。
仕事と子育てのてんこ盛り
無事に長男のお産を終えて実家で2〜3か月過ごし、母のありがたみを感じる日々。
やはり完全母乳にこだわってしまって(母乳は子どもにとって良いことではあるが)、頻回も頻回の授乳にヘロヘロになりながら、産後を過ごしました。
『母乳育児は痩せる』
って聞いたことがありますが、それは子どもに搾り取られる&睡眠不足で
『やつれる』
が正しいのでは…?と思うこともしばしば。
長男は30分〜1時間に1回ペースで寝て起きてを繰り返す子だったから、逆に2時間も寝た時には、
『ハッ!やべ!2時間も寝てしまった!生きておるか!?』
と心配になるくない寝ない子でした。
だから私は常に眠くて眠くて起きてても常に半分眠っている状態で、起きてるのか寝ているのか分からない感じでずっとフワフワしていました。
関西の自宅へ帰る頃もまだまだ頻回授乳で不安でしたが、長男はすくすく成長してくれて可愛い笑顔も見せてくれるようになりました。
『あ〜このまま仕事復帰せずに、子どもをゆっくり育てたいな…』
と思っていましたが、現実はそうも行かず。(育休1年とった人の試練…)
仕事復帰する時、長男と離れることに不安はありましたが、夫の職場に院内保育園があったのでそこに入れることにしました。
親の心配をよそに、慣らし保育なしでも顔色一切変えずに保育園に馴染む長男…
『ある意味大物か?』と思いました。
私はゆる〜く1年間過ごしたので、仕事復帰したときは『これなんだっけ??』と医療機器の名前が出てこない出てこない…汗
本当に脳って使わないと衰えるんだなって感じました。
感覚を取り戻すのに多少時間がかかりました(汗)
家では私が主に料理や家事全般を担当していましたが、フルタイムの仕事と育児・家事と、頭から火が出そうでした。
世の中のママたちは本当にすごいYO…
そして仕事復帰してから半年。
看護研究を任されることになっていましたが、まさかの長女を妊娠。
結局は先輩に託すことになり、申し訳なさを感じました。
看護研究の発表と長女の出産が重なってしまい、結局どんな発表をしてくれたのかも分からず。
そして、誰も知り合いがいない関西の地で、夜勤のある夫と子ども2人を育てて、私もフルタイムの仕事をしていくのは無理だと感じ、長女を生むタイミングで退職をして九州へ戻る決意をしました。
夫は何も文句は言わず「分かった。」と言ってくれ、職を探して(また新しい職場ではイチからのスタートになるのに)、引っ越しの準備を1人でしてくれて助かりました。(それは感謝する)
職場のみなさまも、看護研究は中途半端だったのに笑顔で送ってくれて本当に感謝でした。
関西で過ごした日々は仕事面ではつらいことの方が多かったですが、可愛い子どもも生まれて大好きな100名城もたくさん回れて(九州住みのままだったら、中部地方の城を攻め倒すのは困難)、プライベートはとても満喫できました。
言ってしまえば、関西にはなが~い旅行にいった感覚かも。
人生そんなこともあるよのぅ…フォッフォッフォッ
(当初の目標とだいぶ違うやんけっ!)

そして九州に帰還し、無事に長女を出産。
また、Tちゃんが取り上げてくれて心強かった!感謝✨️
長女は長男のときとは違って、体半分出てきたところで勢いよく『オンぎゃー!』と産声をあげたので、
『泣くのはやっ!…さては、長男よりしっかり者やな。』
と、生まれてきた時点で個性の違いを察する私。
中学生になった今でも、長男はぽや〜んとしているけど、長女は外ではしっかり者。
『生まれてきた時の状況でも、子どもの個性ってすでに出てくるもんなやな〜』
と感慨深くなりました。(そこ?感動は?)
そして、はじめは私の実家に一緒に住み、またしても母に手伝ってもらっていました。
でも、父の何気ない発言にガルガルしていた私。
いや〜、、、あとから思いましたが、やはり産後は子どもを守るためにかなり繊細になっていたようで…
4か月くらいして近所のアパートに引っ越しました。
しかし、夫は転職したばかりで給料も少なく、毎月赤字も赤字。
夫に秘密で私の貯金を崩す日々。
ここで私の独身時代の貯金を使い果たした…(しくったYO!)

それに加えて長女が生まれてから、0歳児と2歳児を相手にしながら家事をしていくだけでも、私にとってはかなりハードで毎日ヘロヘロでした。
実家の母がいなかったら私、本当に途方に暮れていたと思います。
そして金銭的にも厳しいし、子どももかわいいと思うよりも、早く保育園に入れて離れたいと思う気持ちのほうが大きかった…(かわいいはかわいいんだけど、、ねっ!)
そんなこんなで長女を産んで1年してから、無事に近所の保育園に預けることも決まったので、産婦人科クリニックで看護師のパートをすることにしました。
長男は保育園にすぐに馴染んでいたけど、長女は人見知りが激しいかったから大丈夫かなって思っていましたが、子どもの順応能力はすごいですね!
ちょっと慣れてきたら『ばいば〜い👋』って手を振って、私を送り出してくれるようになり。
私がお迎えに行ったら、遊んでいたオモチャを放り投げて走ってくる姿がなんとも愛らしくて♡
私が仕事の間は、子どもと離れることになり少し淋しく思いつつも、
『いくら親子でも、私にはべったりする距離ではなくて適切な距離感が必要なんだな〜』
って感じました。(子どもにとっては淋しかったかもしれませんが、私には距離が必要でした。。。)
保育園の先生も優しくて親身になってくれていい先生ばかりで助かりました。感謝です。

そして、勤めることになったクリニックは婦人科のみで分娩は扱っておらず、主に子宮がん検診や月経不順や月経困難症、ピルの処方などを行ってるいわゆる『かかりつけ医(一次医療機関)』
院長先生は寡黙な先生でしたが、患者さんには優しくて話をしっかり聴くタイプの先生で、医師にしては珍しく(←偏見)怒るとこなんて見たことなかったなぁ。
患者さんの数自体は多くなかったし、週に3〜4日のパート勤務だったのでゆる〜く働けて、先輩看護師も受付さんも清掃さんもみんな和気あいあいとしていて働きやすかった。
逆に今まで大きな病院ばかりの勤務だったから、初日に先輩看護師から『今まで勤めていたところの感覚はすべて忘れて』と言われて。
『え?どんだけ違うん?』と思いましたが、私は”郷に入っては郷に従え”タイプなのであまり違和感はありませんでした。
確かに総合病院や大学病院は、清掃は専門業者さん、掃除は清掃員さん、物品の滅菌もその担当部署があったので、その業務を看護師がやることはなかったけど、クリニックではまず朝来たら掃除機をかけて、処置後の汚れたものは洗濯機にかけて干して、滅菌物も袋詰めして滅菌にかけて…までやってました。
『所変われば看護師の業務も随分と違うんだな〜』
と感じつつも、大きな病院とは役割が違うから当然だよな〜と。
(洗濯とか掃除とかは看護師の仕事ではなくて看護助手の仕事だって思う人もいるかもしれないけど、”ナイチンゲールの看護覚書”には環境整備の大切さも書かれているから、私は看護師の仕事でもあると思ってたし。)
患者さんの数が少ない分、看護師の数も今までに比べたらとても少なくて、患者さんが重なって来たときにはバタバタとすることもありました。
そのときに常に先輩看護師に言われていたのは、
『慌てず騒がず、でも機敏に』
という言葉。
その言葉の通り、先輩看護師はいくら忙しくなっても慌てずに表情も変えずに、でもキビキビと動いていました。
特に少人数のクリニックの外来では、大学病院よりももっと一人ひとりの動きが大事になるなって感じました。

そんなクリニック勤務でしたが、どうしても1つだけ慣れないことがあって…
それは、人工妊娠中絶。
もちろん、世の中には強姦などの妊娠により子どもを諦めなければならない状況の人もいることはわかりますが、そのほとんどが強姦などの妊娠ではなく『計画外の妊娠』『経済的な問題』でした。
分かってます、、、生めない、育てられない、子どもは諦めるしかない人達がいることも。
そして、人工妊娠中絶の介助も看護師の仕事であるということも。
でも、、、
中絶後の赤ちゃん。
妊娠初期とはいえ妊娠11週くらいだと、小さくてもちゃんと手の指も5本ちゃんとあって、しっかりした人間の形をしていて…
その亡骸を見るのが本当に辛かった。
2人の子どもを育てているから余計に。
仕事だから仕方ないって割り切っていたけど、それだけではやはりどうしようもなくて。
中絶をする患者さんの背景も様々で、中絶することを泣く泣く決める方もいれば、今回も当然のように堕ろしまーす!みたいな方も少なからずいて、本当に複雑な気持ちになり…
だからある日から中絶の介助に付いた日には、必ず帰りに神社に寄って、
『今日のあの子が無事に天国に戻って、今度はちゃんと生んでくれるパパとママのところに行けますように…』
って、参ってから帰るようになりました。
先輩看護師は『私はそれはそれ、これはこれで考える。どうも思わない。』と言っていて、そういう考え方もあるんだなって思いましたが…
でも、私の心のなかでは腑に落ちなかった。
どうしても必要なことなんだろうけど、私には最後まで馴染まなかった。
だから次に働くとしたら『できれば中絶をやってないところがいいな…』と思いながら働くのでした。

そんなこんなで、クリニックでは院長が閉院を決めるまでの6年半、パート看護師として子育てをしつつゆる〜く働かせてもらいました。
【まとめ】
無鉄砲オタク、親子とはいえど適切な距離感が大事と実感し、クリニックでは看護師業務の幅の広さや機敏に動く大切さを学ぶ。
まさか私が病気に!?
さて、話は少し戻りますがクリニックで働きだして2年たった頃。
私の体に異変が起き始めます。
なぜか、体のあちこちの関節がこわばって、酷いときには痛みもあって。
はじめは、左手の第3関節あたり。
『あれ?なんか手が痛い?…こわばるな、むくんだかな?』
と思い様子見。
そうこうしてたら、数日後には嘘のように症状は引いていて、『あれ?勘違いかな?』と思うくらい何ともなくて。
しかし、またちょっとしたら別のところに同じ症状が現れて、また引いて…を繰り返し、でも痛みはどんどん増していく感じで。
反対の右手
その次、肩甲骨
そして、足の関節
最後は顎まで。
痛くて痛くて、
おにぎりが握れない
車のギアチェンジができない
フローリングが痛くて歩けない
関節がうずいて眠れない
眠ったとしても痛みで寝返りができない
子どもの抱っこができない(←これが1番辛かった…)
何かがおかしい…
痛すぎる…
痛み止めが手放せない日々

整形外科にかかり痛み止めのキシロカイン注射を打ったり、サポーターしたりリハビリに通ったりしましたがなかなか改善せずで。
そんな痛みに耐える日々を9か月ほど過ごしましたが、本当にきつかったので整形外科の先生に懇願してある検査をしてもらいました。
それは、
『関節リウマチ』
朝のこわばりが出た時点で、なんとなく薄々リウマチじゃないかなって思っていましたが、ようやく血液検査をしてもらってCA-RF値が高値。
それでも、整形外科の先生は『胸郭出口症候群』って言い張るから、「それで顎まで痛くなるんですか?」って言って、ちょっと強引にリウマチのファーストチョイス薬である『メトトレキサート』を出してもらいました。(ここまで我慢せずに、クリニック変えればよかった…)
多分、典型的なリウマチの診断基準を満たしてなくて、先生はそう判断したんだろうけど、私にはどうしてもリウマチにかしか思えなくて…
正直、関節リウマチになったショックよりも、
『やっとや!やっとこの痛みから解放される!』
と喜びのほうが大きかった。
痛み止めと併用しながら、メトトレキサートを飲んでいたのでムカつきはあったけど、徐々に関節の痛みやこわばりが取れていって本当に嬉しかった。
病気持ちになるショックよりも、その治療方法があるって本当に患者さんの希望になるんだなって、自分が患者になってみて改めて思いました。
でもやっぱり、
『なんで私がリウマチになったんだろう』
って気持ちは、どうしても心の片隅にはあって。
まだ30代前半
これからって時に病気になっちゃった
子ども2人もまだ保育園児なのに
仕事もあるのに
しかも、薬は死ぬまで手放せない
薬を飲んだら症状は落ち着く(寛解)けど、飲んだあとムカムカするこの薬を、一生飲み続けなければいけない
催奇形性がある薬だから、もう次の子は望めない
自己注射の薬もあるけど、それは値段が高すぎて流石に今の給料じゃ無理
なんで、リウマチなっちゃったかな…
まぁ、考えても仕方ないんだけどさ…
と、思うこともしばしばあって。
そんな時に、大学時代の恩師A先生(生い立ち②:青年海外協力隊に行ったことがある先生で、一緒にカンボジアに行かせてくれた先生)の、母乳育児セミナーがあると知り参加することにし、10年ぶりくらいにA先生に会いに行きました。
A先生は私がセミナーに参加していたのを知らなかったみたいで、会った瞬間に驚いていたけど、相変わらずの優しさで迎え入れてくれて嬉しかった。
セミナーが終わったあとA先生に直接話をしに行き、母乳育児支援について個人的に話していた中で、
「今、リウマチになってしまって、手の関節が痛くてあんまり乳房ケアができなくて…」
と話したら、
「そっか、そうなんだね…それは辛いね。〇〇先生の話で自己免疫疾患になる原因は”精神面”と”体力面”のバランスが崩れた時になるって聞いたことがあるよ。Ponちゃん、バランスが取れていないんじゃないかな?」と言われ。
言われてみれば、確かにそうかもなぁ。
今は子育てと仕事と家事と…で、いっぱいいっぱいの生活してるしな。
いやでも、私パートやし…
正社員さんに比べたら勤務時間も少ないし、休みの日にも保育園預けちゃってるし…
と、そんなことはない!と、ど根性発動。
しかし、その後も関節の痛みが増すことも多くて、薬の量が安定しない時期がありました。
その頃にネットで読んだ記事に、
『リウマチになる人は頑張り屋さんだからだよ。もっと自分を労ってあげてね。』
と、書いてあって『ハッ!』とさせられました。
あぁ〜、私、頑張りすぎてたんかな…
すぐ自己卑下のループに入るし…
大学時代もそうだった
NICU時代もそうだった
すぐに『私はダメだ』『こんなんじゃダメだ』って自己否定に入る
それがいけないのかな?
もうちょっと、自分を認めてあげたほうがいいのかな?
いや、でも私なんて実際まだまだやしな‥
そんなの私の甘えじゃない?
だって世の中、3人子育てしながらフルタイムで働きよる人もおるのにさ…
と、行ったり来たりを繰り返しながら『精神面』と『体力面』のバランスを整えることに苦労していくのでした。(のちに、体からの強制ストップだったと気づく…)

【まとめ】
無鉄砲オタク、病気の治療方法があることは患者さんの希望になると実感するが、自己卑下のループから抜けられず体からの悲鳴にあらがう。(素直に認めとけYO…汗)
長文駄文にも関わらず、読んでいただきありがとうございました。
【次回予告】
〜これからの未来は〜
読んでくれると嬉しいです♪
