前回(生い立ち②)は、オタクちゃんの大学時代の黒歴史について書き散らかしました。(読んでいただいた方、ありがとうございます!)
無事に国家試験に受かったオタクちゃん。
意気揚々と助産師として働き始めますが、そりゃーもう…すぐヘコむヘコむ。
我ながらあっぱれなチキンハート🐥
一体、どうやって乗り越えていったのでしょうか。(また運か?)
またしても長文ですが、読んでくれたら嬉しいです♪
同期に恵まれて、なんとか頑張った新人時代
オタクちゃんの助産師デビューは、地域周産期母子医療センターにも指定されている地元の総合病院。
分娩件数も結構あって、早産や異常分娩の救急搬送も受け入れていて、地元では割と病床数も多くて有名な病院でした。
あれだけ助産実習でけちょんけちょんになったのに、あろうことか重症患者も扱う総合病院に就職したオタクちゃん(汗)
一体なぜそんな無謀なことをしたのか…?
その所以は、助産実習のときのクリニックが自然分娩をしていたから。
そのクリニックには分娩台がなく、畳に布団を敷いて好きな体位で産んでもらう『フリースタイル分娩』をしていました。
でもそれは、自然分娩がいけないとかそういったことではなくて(むしろ好き)、実習中にいくどとなく『異常が分からなければ正常も分からない』と痛感したから。
”このモニター波形はどう読める?”
”これからどういう経過をたどると予測できる?”
”もし児心音落ちた場合はどう対応する?”
”そして今できることは何?”

いや〜、しんどい。本当にしんどかった…(1番しんどいのは産婦さんと赤ちゃんね!忘れんな!)
たった2ヶ月半の講義で私のインプットの悪さも加わって、全然頭の中が整理できなかった。
お産は待ったなしだから、それを一瞬の間にアセスメントして実施しなくちゃいけない。
知識として頭に入っているつもりでも、現場にでると『ポン!』って飛んで、さっきまで考えてたことが言えなくなって分からなくなることも多々あり…(ponだけにね←)
だから痛感しました。
将来はフリースタイル分娩に携わりたいから、まずは総合病院で異常妊娠・異常分娩の勉強をして、何にでも対応できる力を身に付けないとって。
そもそも正常経過をたどっている妊娠・分娩でも、いつなんどき急変するかは誰にも分からないし、早剥もHELLPもHDPも子癇も早産も胎児異常も、ぜーーーんぶしっかり学んだら、心ゆくまで自然分娩に携わろう!と思っていました。
でも、頭のなかぐちゃぐちゃなオタクなので、それはもう毎日のように帰ってから『もう無理…辞めたい…』ってヘコんでいました。
右も左もわからなくて、大したこと出来ない自分の不甲斐なさ
レポートに追われる日々
こわーい先輩にギロリと睨まれる恐怖
分娩介助のときの責任の重さ
緊急帝王切開になったときの1分1秒を争う緊張感
産科だけでなく婦人科のがん患者さんもいたから、抗癌剤投与の怖さ
終末期の患者さんをみる辛さ
あー、今思い出しても胸がキュッとなる。(でも、助学時代みたいに『死にたい』とまでは思わなかった!成長したぞ!エライ✨️)
そんな中でも、やっぱり私を支えてくれた人がいて…
『同期のTちゃん、Uちー、J子、Hちゃん』
この4人がいてくれたから、辛かった新人時代を乗り越えられた。(やっぱり私は出会い運が良い!)
特にTちゃんは、高校生のとき『1日看護体験』っていうのに参加したときに、たまたま同じグループになって会ったことがあって、その日以来会ってなかったし連絡とってなかったけど、入社式の日にロッカーでばったり会って、お互いに「あああーーーー!笑」となり…
そこからまさかTちゃんが、私の子どもを2人とも取り上げてくれるなんて、このときはまだ想像もしてなかった。笑
本当に人との出会いって奇跡だなって実感。
同期のみんなとはご飯にいったり、愚痴を言い合ったり励ましあったり、スノボ行ったり、合コン行ったり、温泉旅行いったり…楽しいことをたくさんしたなぁ。
辛い新人時代だったけど、一緒に乗り越えてくれて本当に心強かった。
今でもたまに会って食事に行くけど、当時の話で盛り上がって話は尽きず、本当にいい同期に恵まれたなって思います。
そして、プリセプターのKさんも本当に優しかった。(お世話役の先輩助産師さん)
優しくもしっかりと現場のことを教えてくれて、本当に頼りきってました。
Kさんがいるときといない時の、私の心のバロメーターのフリ幅といったらもう…笑
私も先輩になったら絶対にKさんみたいな優しくて的確な判断ができる助産師になるっ!て、私の目標になりました。
幾度となく『もう辞めよう…』って思ったけど、ここでもちゃんと引き戻してくれる人がいてくれたおかげで、私はなんとか新人時代を生きのびました・・・🙏

【まとめ】
オタク、また人に救われて新人時代を乗り越える。(感謝しかない!)
死と向き合う難しさ
そんなぴえんぱおんな新人時代を過ごしていたオタクちゃんには、身を持って『死と向き合う難しさ』を教えてくれた患者さんや赤ちゃんがいます。
『生きる』とは。
『死』とは。
『看取り』とは。
答えは簡単には出ないけど悩みながらも向き合い、自分なりにどう落としどころをつけていったのか記していきたいと思います。
(リアルな死の話がでますので、苦手な方はこの章を飛ばしてください。)
【子宮頚がんのAさん】
Aさんとの出会いは、Aさんが初めて病棟に入院して抗癌剤治療を開始する時。
「Aさん、こんにちは。今日担当のponです。」って挨拶したら、パッとこちらを向いてキラキラな瞳で「はい✨️」と返事をしてくれて、『うわっ!めっちゃかわいい!』と思ったのが第一印象でした。
それから、抗癌剤投与がはじまりはじめは前向きに治療を受けていたけれど、抗癌剤のクールが進んでいくにつれて、あのかわいい笑顔が消えて元気がなくなっていくAさん。
病気の進行と抗癌剤の副作用(当時はまだ吐き気とかの副作用が強くでることもあった)で、体がきついっていうのが表情でわかり…
でも当時の私はどのように声をかけたらいいかも分からず「今回の入院もお願いします。」とか当たり障りないことしか言えなくて、Aさんの心情とか全く聞くことができなかった。
もっと、Aさんの気持ちとかやって欲しいこととか話を聞けばよかった。(実際、勤務中はバタバタ忙しくて時間的に厳しかったこともあるけど…←言い訳です、すみません。)
そして、何度も抗癌剤治療をしましたが奏功せず、いよいよ看取りの方向になっていきました。(当時はまだ、終末期でも緩和ケア病棟に転棟しないで病棟で看取る患者さんも結構いた。)
その日は私がたまたま夜勤だった日。
Aさんの状況は把握していたつもりだけど、まさか夜勤中に亡くなるなんて思いもせず新生児室を担当していました。
赤ちゃんたちの夜のバイタルチェックや処置を一通り終えて、新生児室から出てナースステーションでカルテの確認をしていた時、Aさんの病室からナースコール。
それと同時に、付き添っていた息子さん娘さんの「お母さん!!」と言う大きな呼び声が聞こえてきました。
『え!!もしかして…!』と、ザワザワしながら主任さんと一緒に病室に急行。
モニター上の心拍の波形はフラットではなかったものの、でも徐脈になっているのは明らかで『あ、今日このまま亡くなっちゃうんだ…』と察しました。
私も咄嗟に手首で脈を取り『あ、まだ脈は触れる。血圧80はあるか…』と思いつつ、でも新人のへっぽこ助産師にはそれ以外は何も出来ず、亡くなるまでの小一時間、ご家族の方と一緒に見守らせてもらいました。
徐々に下顎呼吸の間隔があいていき、モニター波形もどんどん伸びいく…
でも、その間もずっと息子さんと娘さんは両ベッドサイドから手を握って、
「お母さん!ねぇ、息して!」
「そうそう!そうやって息吸うんよ!」
「ねぇ!お願い!!」
「俺達おいて、どこに行くん!」
「ねぇ、お母さん!!」
と、ベッド柵や壁をバンバン叩きながら泣いて訴えかけていて…
初めて人の看取りに立ち会わせてもらったけど、私も勝手に涙がポロポロ流れてきて、本当に見守ることしかできませんでした。
そして、いよいよ下顎呼吸も途絶えモニター波形もフラットになり、それを確認した主治医が病室に入ってきて死亡確認。
腕時計を見ながら「◯時◯分、息を引き取りました。」と宣告。
息子さん、娘さん、旦那さんがAさんの名前を叫んで、泣きじゃくる…
人が息を引き取るって…
亡くなるって…
それを見守るって…
つらい
かなしい
どうしようもない
何もできない
ただただ、見守ることしかできない・・・
それから少しご家族の方の時間を取るために一旦退室。
その間に先輩と一緒にエンジェルケアの準備をしつつ、新生児室では赤ちゃんが泣いていたので、赤ちゃんを抱っこしてミルクをあげてたら、なんだかまた涙がこぼれてきました。
小さくてあったかくてずっしり重たい命
生きるために必死にミルクを飲む命
いつかはこの命も亡くなっていくんだな・・・
生まれてくるときはあんなにも大きな声で泣いて生まれてくるのに、亡くなる時はあんなにも静かに息を引き取っていくんだ。
先輩たちはこんなにもつらい出来事を、どうやって乗り越えてきたのだろうか。
自分の心をどうやって保っているのだろうか。
どうやって心の折り合いをつけていったらいいんだろうか。
きっと1番つらいのは、患者さんのご家族さん。
でも、その方々を見守る私たちの心ってどうやって守っていったらいいの?
こんなにもつらくて悲しい出来事に、看護師って慣れていくものなの?
無理…私には無理かもしれない…
そんなことをグルグル考えながら授乳を終えて、再びAさんの病室へ。
そこには目を腫らしながらも、少しスッキリした表情のご家族の姿が。
一緒にエンジェルケアをさせてもらいながら、息子さんや娘さんが、
「お母さん、寝とるときと同じ顔しとーやん。」
「お父さん、いつもお母さんに靴下履かせてもらいよったんやけ、最期くらい履かせてやりーや。」
「…またお母さんの子どもに生まれたいな。」
「また俺のこと産んでね…」
と話しかけていて、そんな言葉を聞くとまた涙で目が霞んでしまう。
エンジェルケアを終えてフッと外を見ると、空は明るくなりかけていました。
人が亡くなっても、何事もなかったかのように朝が来てそれぞれの日常が始まる。
産婦人科は赤ちゃんが生まれて『おめでたい』だけじゃなく、同じフロアで亡くなっていく方もいて、人生の”始まり”と”終わり”を目の当たりする病棟。
気を抜いたら忙しさで『当たり前にある命なんてない』っていうことを忘れそうになるけど、私は絶対にこの日のことを忘れないって、1人で心にそっと刻みました。
今でもまだどうやって人の死と向きあい、どうやって折り合いをつけいけばいいのか、これでいいのかと悩むこともあります。
でも何かの本に書かれてあったけど、自分の勤務の時に患者さんが亡くなるのは『きっと亡くなった患者さんは、あなたに看取ってほしかったからあなたの勤務帯で亡くなったんだよ』っていうのをみて少し心が軽くなりました。
Aさんも私に看取ってもらいたかったのかな。(勘違いかもしれんけど)
へっぽこ助産師に『人の死』を経験させるため、私の夜勤の時を選んでくれたのかな。
そうやってグルグル悩みながらも自分なりに死を受け入れていくことで、ちょっとずつ前に進めた気もします。
Aさん、本当にありがとうございました。
あなたのことは、これからもずっと忘れません。
私もこの世を去る時には、Aさんのように家族に見守られがら旅立っていきたいと思いました。

【食道閉鎖・心疾患合併の赤ちゃん】
Aさんの看取りをきっかけに、グリーフケア(遺族の方への心理的サポート)にも興味を持った私。
そこからグリーフケアに関する本を読んで助産師としてどのように関わったらいいか考えたり、死産に立ち会うころもあったから『誕生死』と言う本も読み、自分なりに模索していました。
特に出会いと別れが同時にくる『死産』は、本当に妊婦さんにとっては悲しいの一言ではすまされないような経験になるので、計り知れない辛さがあるし、私にできることってなんだろうと悩むことも多々あり…
そんな中、入院してきたのは妊婦健診で赤ちゃんに食道閉鎖と心疾患があるだろうと言われたBさん。
他院で診断されて、うちに紹介となり入院後に帝王切開で娩出することが決定していました。
Bさんは若くてほんわかした感じのかわいい人でした。
そして帝王切開が決まり手術となりましたが、赤ちゃんはやはり食道閉鎖と重症の心大血管合併があり、救命の甲斐なく亡くなってしました。
私が担当したのは、まさにその日。
Bさんの病室に入ると、コットに寝かせられている赤ちゃん。
とてもキレイな顔をして、寝てるようにしか見えませんでした。
Bさんも帝王切開後だから傷の痛みもあり、あまり動けなかったので、亡くなった赤ちゃんの抱っこのお手伝いをしたりしていました。
そんなしんみりした時間を過ごしていた中、主治医が突然病室に入ってきて第一声。
「解剖どうする?」と。
今、赤ちゃんとのまったり時間を過ごしていたのに、急に来て状況を見ずに『赤ちゃんの解剖の話をする!?』と思いながら、Bさんの方を見たらやはりうつむいてしまい…
そりゃそうなるよ。。
医師の仕事として亡くなった赤ちゃんの病理解剖は、死亡原因が分かるし次の妊娠のときのリスク管理にも役立つから必要なことだとは思う。(Bさんにも事前に説明はしている)
けど、入室第一声がそれって…
もっとさぁ、こうさぁ、、「抱っこしてるんですね。」とか「かわいい顔していますね。」とか、そっと寄り添って一呼吸おいてから言うべきじゃない!?と思ったけど、へっぽこ1年目助産師にはそんなこと言う勇気もなく…
でも、Bさんは悩みながらも解剖に同意をしてくれ、その日のうちに病理解剖することになりました。
そして、解剖の呼び出しの電話があったのでBさんから赤ちゃんを預かり、コットに寝かせて地下にある解剖室に連れて行き、心の中で『痛いかもしれんけど、解剖頑張ってね。』と声をかけました。
解剖の間、他の受け持ち患者さんのケアをしつつ、Bさんとご家族の方に何かできることはないか考えていました。
『誕生死』の本に書かれてあったけど、死産になった妊婦さんが看護師にしてもらって嬉しかったことに『赤ちゃんとの思い出を作ってくれた』とあったので、解剖が終わったら足形とったり写真を撮ったり、Bさんがしたいことは何でもしようと思っていました。
そして、数時間後に解剖終了の連絡があったのでお迎えに行きましたが、そこで見た光景に相当ショックを受けました。
解剖室のドアの前に、まるでショッピングカートを置くような感じで、ポンって置かれたコット。
そこには肌着がはだけて、喉の下からおヘソにかけてバッサリ切られて、縫合も普段の手術の丁寧な縫合とは違って、粗めにグイグイ縫われた痕が丸見えになってる赤ちゃんが横たわっていて・・・
思わず、『うわっ、、ちょっとこれはいけんやろ!赤ちゃんを物みたいに扱ったらダメやろ!せめて縫い目が見えんようにとかさ!Bさんが見たら絶対ショック受けるやん!ダメやん!』と悲しさなのか怒りなのか分からない感情が出てきて、半泣きになりながらすぐに赤ちゃんの頭をなでて「がんばったね、痛かったね…」と言いながら、なるべく傷口が見えないように肌着を整え布団をかけました。
そして、解剖室のドアを開けて「赤ちゃん連れて帰ります!(怒)」と伝え、病棟に連れて帰りました。(チキンだったので、そのことは言えなかった…)
今となっては『解剖終わりましたよ』の印として、ワザと傷口が見えるようにしていたのかなとも思うけど、せめて肌色のテープを貼るとか配慮は出来なかったものか・・・
そして、Bさんの病室に赤ちゃんを連れて帰り「Bさん、終わりましたよ。赤ちゃん、頑張りましたよ。」と声をかけ、少し安堵の表情を浮かべるBさん。
それから抱っこをしたり写真を撮ったりして、先ほど考えていた足形を取ることを提案したら快諾してくれたので、スタンプで足形を母子手帳に一緒に押して、かわいい足形が取れてBさんも嬉しそうにしてくれて。
生後1日目は1回に10mlのミルクを飲むので、哺乳瓶にミルクを入れて「今、きっとお空の上でこのくらい飲んでいると思います。」と説明してミルクをお供え。
そしてまた抱っこをして写真を撮っていたら、Bさんがそっと涙を流しながら、
「…本当は解剖なんてどうでも良かった。」
「次の子とかどうでもいい。」
「この子はこの子しかいないのに・・・」
と、つまりながら気持ちを吐露してくれました。
私は「うんうん…そうですよね。」としか声掛けできず、ただただ寄り添うことしかできなかった。
でも、それと同時にずっとBさんはつらい気持ちを吐き出せずに我慢していただろうから、イチ助産師の私に気持ちを話してくれて正直少しホッとした。
そうやって気持ちを素直に表すことも、悲嘆の過程には必要って書いていたし。
ポロポロ泣くBさんに寄り添いつつ、私も涙目。
時間が許す限り、心ゆくまで赤ちゃんとの時間を過ごしてもらいました。
そしてその後、悲しいけれどBさんは小さい棺を持って退院していきました。

私がBさんと関われたのはほんの数日。
でもBさんはこれからきっと一生、亡くした赤ちゃんのことを胸にしまいながら生きていく。
私がBさんにしたことが本当に良かったのか、私が発した言葉がBさんにとって適切だったのか、これが本当にBさんのためになったのかは、正直いって分からない。
けれど、忙しい日常でもこれからも自分なりに妊婦さんや患者さんに寄り添い、一緒に悩みながら看護を続けていこうと心に誓った出来事でした。
【まとめ】
へっぽこ助産師、答えはでないけど『人の死』に向き合いたくさん葛藤する。
これからの私に必要なことって?
患者さんの死と向き合う傍ら、助産師としての技術も身に着けないといけない1年目。
分娩台でのお産に慣れていなくて、相当苦戦しました。
助産学生のころの実習施設が、分娩台がなっかたため仰臥位(仰向き)での分娩介助は難しかった。
なんせ骨盤誘導線と重力が真逆の方向になるから、それはそれはお股が切れても当然で。
医療者が管理しやすいってメリットはあるんだけど、本当に産婦さんには酷だよなって思いながら介助していまいた。
そして地域周産期母子医療センターだったので、早産や合併症妊娠の産婦さんも多く、助産師としてたくさん学ばせていただいきました。
そんな中で、私の今後の助産師人生のターニングポイントとなった妊婦さんがいました。
【妊娠高血圧症候群・妊娠24週で早産になったCさん】
Cさんは妊娠22週で妊娠高血圧症候群の診断で管理入院になり、絶対安静で24時間点滴をしていた妊婦さん。
私は担当助産師として、Cさんの洗髪など日々のケアに関わっていました。
そして事が起こったのは、またしても私が夜勤だった日のこと。
Cさんはまだ妊娠24週。
夜勤帯のCさんの血圧は正常だったものの、夜の23時頃に「気持ちが悪い」とのナースコール。
当直医に報告するも経過観察の指示のみ。
妊娠高血圧症候群の人が気分不良を訴えたらHELLP症候群に移行する可能性もあるから、採血もせずに様子見は「ちょっと怖いね、なんか怪しいね…」と先輩と話していたところ、今度はお腹が痛いとのナースコール。
これはさすがに当直医に連絡しつつ、『もしかして24週だけど分娩になっちゃう!?』と内心慌てながら、ドップラーで心音を拾おうとしたけど、うまく拾えず…
そしたら先輩が変わってくれて心音取ってくれたけど、明らかに下の方で聴こえて(恥骨上付近)、『あ、これ、分娩になるやつや。ヤバいやつや。』と察し…
当直医が来てベッド上で内診して、
「あ、、赤ちゃんすぐそこに触れるわ」
とのこと。
『えー!やっぱりか!』と驚きつつ超特急で分娩室に運び、清潔野を広げて新生児科医にも連絡。
そして分娩の準備が整ったら、2〜3回のいきみでツルンと赤ちゃん娩出。
でも…
妊娠24週の赤ちゃん。
私の右手の手のひらに、ちょこんと乗って収まるくらいの大きさの赤ちゃん。
幸帽児(羊膜に包まれたまま生まれてくること)だったので、急いでコッヘルで破膜して呼吸ができるようにするけれど、そもそも24週の赤ちゃんが自発呼吸できるわけもなく…
筋緊張もなく、暗赤色…
一瞬『え…生きてるの?!』と疑うくらいの状態(本当にごめんなさい)
急いで臍帯を切って、インファントウォーマーに連れて行き新生児科医に引き継ぐも、あまりにも早いお産だったため新生児科医もまだ全然準備が出来ておらず、私じゃ介助なんてできるわけもなく、
「え!もう来た!ちょっと、Nの看護師さん呼んできて!!」
と叫ばれ、急いでNICU(新生児集中治療室)に行き、
「どなたかNの看護師さんきてください!」
と、叫び援助を求めることしかできず。
NICUの看護師さんも「えっ?」という感じで、何人か急いできてくれて。
NICUの看護師さんの介助のもと、赤ちゃんはすぐに挿管されて、心マもされていたけど状況は明らかにシビア。
私はそんな赤ちゃんの状態を横目に、胎盤を娩出しないといけなかったからその対応をしていたら、赤ちゃんは人工呼吸されながらNICUに運ばれて行きました。
Cさんも赤ちゃんの状態が心配になり不安そうでしたが、そう簡単に『大丈夫ですよ』なんて言えるわけもなく、なんて声かけしたらいいか分からずで…

そして分娩後、バイタルを測りに部屋にいき、処置をしたあとのこと。
Cさんと旦那さんから、パンフレット片手に、
「赤ちゃんにはいつから面会できますか?」
「初乳っていつからでるんですか?」
「初乳って生まれたての赤ちゃんに大切って書いてるけど…できれば赤ちゃんに飲ませたいです。」
と、真剣な眼差しで質問攻めにあいました。
私…
24週の赤ちゃん取り上げるの初めてで、出てきた瞬間、
『これはもうダメかも…明らかに普通の赤ちゃんと違う』
と思ってしまったのに。
こんな助産師がお産についてごめんなさい。
ご家族の希望を踏みにじるようなこと思ってしまってごめんなさい。
本当、助産師失格や…
と思いつつ、申し訳なさでいっぱいになりながら、できるだけ質問に答えました。
退室後、胸の中がザワザワして…
『私がなりたかった助産師ってこんなもん?』
『こんな産婦さんに寄り添えない助産師で良かったんだっけ?』
『もっとこう…なんか違うくない?』
と、言葉にならない気持ちがフツフツと湧いてきました。
その後、日勤帯で出勤してきた先輩助産師に
「どうしてお産になっちゃったの?」
と聞かれ、私も
「いや、ちょっと夜中に気持ち悪いってなって様子見してたけど、今度はお腹が痛いって言い出して赤ちゃんが降りてきてて…。」
と答えるしかなくて。
でも、その先輩は答えに迷った私に、
「お産は結局、結果論でしかないから、それをどう肯定的に説明するかも助産師の役目だよ。」
と言われ、確かにそうだよな…と思うしかなく。
圧倒的に私の知識が足りないこと
コミュニケーション能力が足りないこと
1人の人間として深みがないこと
それらを補うためにはどうしたらいい?
どうしたら先輩のようにちゃんと患者さんをみれる?
どうしたら患者さんが納得いくような説明ができる?
そんなことをグルグルと考えて…
そして考えるに考えて、答えがでたことがあります。
それは、
『もっと新生児の勉強がしたい』
ということ。(なぜか新生児看護にたどり着きました…汗)
妊婦さんや産婦さんは話したら『痛い』『苦しい』とか大体の症状は言ってくれるから、ある程度の現状は把握できる。
でも赤ちゃんは話すことができないから、自分の状況を知らせる手段として、泣いたり無呼吸になったり熱を出したりして訴えかけてくる。
でも、その対応が私には難しかった。(私の勉強不足なのは百も承知)
それに加えて今回の件があって、新生児蘇生が全く出来なかった自分の不甲斐なさもあり…
だから、
『新生児のことをもっと知りたい!』
『NICU(新生児集中治療室)で、赤ちゃんのことをもっと勉強したい』
と思うようになりました。
もともと赤ちゃんの可愛さにやられて助産師を目指したのもあって、これからは新生児の勉強をしよう!と息を巻き、そう決めてからは自分で病院を調べて見学に行くという日々を続けました。
いろいろな人にNICUが強い病院を聞いて、中国地方1件と関西地方3件の病院見学に行き、最後に行った大学病院のNICUが1番私にあっていそうだったので、そこに決めました。
そして、就職試験を受けて無事に合格し、3年目の終わりに転職することにしました。
覚えることがいっぱいで、つらいつらい新卒からの3年間ではあったけど、本当に良き同期に恵まれた上に、産科救急と婦人科疾患についてたくさん学ばせてもらい、今でも私の礎はここにあります。
関わらせてもらった患者さん・妊産褥婦さん・赤ちゃん・病院のスタッフさん、全てのみなさまに感謝です。(Cさんの赤ちゃん、今もすくすく育ってくれてるといいな…)
【まとめ】
へっぽこ助産師、へっぽこのまま次の目標(新生児看護)に向けてヤル気を出す!
(のちに空回りするがな!ガハハ!)
トントン進むよ、どこまでも…
さて、そんなグルグル悩みながらのへっぽこ助産師だったオタクちゃんにも、ついに春が訪れます。(やっとか!)
当時、仲が良い先輩後輩だった夫とは、就職してからあまり連絡は取っていませんでしたが、1年目の秋頃に連絡があって、
「そういえば、この間奢ってもらってそのお返しが出来てなかったけ、今度ご飯行こう。」
と誘われ、
『え、いつの話?つーか、私奢ったか??←』と思いつつ、『まぁいいや』と思っていつものように「はーい」と返し、1時間かけて会いに行きました。(夫は卒業した大学の近くに就職し、その周辺に住んでいた)
半年ぶりくらいに会っても相変わらずで、2人で鍋をつつきながらどうでもよい話をして、その日は夫の家に泊まられせてもらうことに。
『この人、マジで手を出してこんなー、本当に兄妹みたいで良き友達やな〜』と安心?しつつ寝て、次の日も休みだったから、夫の車で少し遠くへお出かけしました。
城下町を散策したりご飯を食べて楽しみ、その日は適当に宿をとって泊まることにしました。
そこでまぁ、すったもんだありましてw(なんだこのやろう)
そして、次の日もちょっと遠出して、これまた別の城下町を散策。
今度は手を繋いじゃったりしなかったり…(はいはい)
夫は帰りの車の中でやっと「じゃあ、付き合おっか。」と言ってくれ、これが腐れ縁の始まりでございます。←「じゃあ」って何?💢
ちゃんと付き合いが始まってからはお互いに旅行にハマり、私の夜勤明けをうまく組み合わせて連休を取り、九州・四国・中国・近畿など様々な地域をめぐりました。
そして、その時にハマったのは
『日本の100名城』
私は歴史は壊滅的に弱いのに、石垣や天守閣の構造に魅了され100名城の本を買って休みのたびに城を巡っていました。
特に武者返しの石垣とか、敵から見えないように攻撃できる狭間とか石落としとか、そういった隠し的な要素に惹かれて、ウハウハ言いながら巡りました。

そんな中、付き合って2年目の私の誕生日。
まさかプロポーズされるなんて!!
そんなこと一切思っていなくて、普段着にメガネ状態で家でご飯を食べていたのに!!
匂わせてくれていたら、ちゃんとした格好してたのに!!笑
はい。。。
詳細は省きますが、プロポーズされて結婚することになりました。
そして、『ここで結婚式をあげたいな〜』って思っていた結婚式場のブライダルフェアを予約して行ったら、なんとそこで私の姉が働いていました。(本当にビックリ!!)
姉は当時、職を転々としていたから今どこで何をしているのか分からなくて、その時も知らないまま行ったら、たまたま衣装部で働いていてお茶吹きました。
家族割が使えるのもあって結婚式場もそこに決まり、トントン拍子で結婚の話が進みました。
が!!結婚式自体は1年後。
実は当時住んでいた病院の寮は、3年経ったら出ていかないといけなかったので、その寮を出ると同時に結納→入籍し、退職をして関西へ転職することに。
そう…『新生児の勉強をしたーい!どうせなら九州をでて関西とかもっと他の地域の医療にも触れてみたぁぁーーい!』と無鉄砲オタクのせいで、夫を連れ回しました。(それでこそオタクの夫よのぅ…フォッフォッ)
そんなこんなで、トントン拍子で結納→入籍→引っ越し→転職と流れていくのでした・・・
【まとめ】
オタクちゃん、なんとなく付き合った人となんとなく結婚する。(いいんか?それで…)

長文駄文にも関わらず、読んでいただきありがとうございました。
〜次回予告〜
仕事と子育てと病気と勉強と…
読んでくれると嬉しいです♪
