ponの生い立ち② 〜大学時代〜

生い立ち

前回(生い立ち①)は、オタクちゃんが大学に合格するまでの話でした。

今回は、大学時代を書き散らしていきたいと思います。(あんまり振り返りたくないけど、、、)

オタクちゃんは、一体どんな経験をしたのでしょうか?

前回と同じく長くなりますが、読んでくれたら嬉しいです♪

看護学の奥深さにぶち当たる

さて、無事に志望校に合格したオタクちゃん。

はじめての一人暮らし。

はじめての大学生活。

全く知っている人がいない中、ワクワクドキドキ新生活をスタートさせました。

でも、すぐに壁にぶち当たります。

大学に入ってから知りましたが、『看護学』ってただ単に「お注射チックン」で済む話じゃないのね…(当たり前だ)

本当にたくさん勉強して、覚えて、考えて、適切なケアを実践して、そしてそれを振り返って、評価して、次につなげていく、、、という無限ループ🌀🌀

しかも病気の治療だけではなく、精神面のケアだったり、環境面を整えることだったり、ご家族への対応だったり、、、広げだしたらキリがないくらいの膨大な要素があるんです。(ヘンダーソンの14項目とか、ゴードンの11項目とか、考える項目がめちゃくちゃ細かくある)

病院実習ではそのひとつひとつを拾って、考えてケアにつなげていくという地道な作業。

毎日山のように記録があり、ヒーヒー言いながら書く日々。(無理ゲー)

あと、概念的なのを理解するのも難しかった。

例えば、フローレンス・ナイチンゲールが提唱している『看護はアートである』という言葉。

当時の私にとっては、「看護が芸術…?いや、意味分からん。」と思ってて。

今の私なりの解釈としては、

【十人十色の患者さん(個性がある)】+【それぞれの疾患(たくさんあって深刻さも違う)】+【十人十色の看護師(こっちにも個性がある)】=【何通りものケア(創造的で最適なケアができる)】

になるのかな〜と解釈していますが。(合ってるかは知らん)

教授の授業もすごく難しく感じて「ケアリングは〜」とか「ホリスティックな〜」とか言われても、「なるほど!わからん。」状態。

そんな『科学と芸術の融合』という壮大なプロジェクト、『医療ワゴンに心惹かれたただのオタク』の私がすんなりできるわけないYO!

今までは、自分の中でほくそ笑んで完結していたのにさ…

本当に看護って奥が深くて難しいなって感じながら日々過ごしていました。

あと、カンファレンスとかディスカッションとかも超苦手でした。

その『アート』の部分をどうやっていくのが適切かを、みんなで話しあうやつ。

【頭の中ぐちゃぐちゃなオタク】→【そのまま話す】→【みんな「・・・?」】の地獄絵図。

論理的に考えて、それを言葉で表現するって至難の業と痛感しました。

「私がしようとしている看護は、私が発した言葉は、果たして最適なのか?いったいどれが最適解なのか?」と、よくつまずいたな…

卒業して20年経とうとしている今でこそ、ある程度はできるようになってきたと思いますが、20歳そこそこの小娘&オタクには本当にキツかった。

【まとめ】

オタク、頭のなかぐちゃぐちゃのまま大学時代を過ごす。大学とは!

世の中の厳しさを知ったバイト

看護の勉強の傍ら、はじめてのバイトにも挑戦しました。

某コンビニなのですが、ここのオーナーはとても厳しくて幾度となく泣かされました。

サークルの先輩に話したら、「えぇ!あそこのコンビニで働きよん?厳しかろ?」って同情されるくらい。

でも、『視野を広く持て、俯瞰して見ろ。』ということを教わった気がします。(超ポジティブに言うとね!)

またお客さんにも様々な人がいて、「ありがとう!」って言ってくれる感じのいい人もいれば、「は?箸つけんでどーやって食べるん?」とか突っかかってくる人もいて。

「こぁい。こぁいよぅ、、、」と思いながらレジ打ちしてました。

そんな仕事の中で1番焦るのは、やはりレジの打ち間違い。

算数が苦手な私にとって、暗算はもっとも苦手で常に計算機をポケットに忍ばせていました。

たまにお預かり「1,000,000円」とか間違って打って、お釣りが「999,642円」になったりして冷や汗をかくことも。(要は、358円の商品を1,000円で支払ってお釣りは642円なのに、間違って1,000,000円から支払ったとか謎な打ち間違い。)

そういうときは、もう頭が『ポンッ!』と弾けてフリーズしていました。(ponだけにね←)

そしてレジ打ちだけでなく、お客さんが途切れたら商品を整理しに走ったり(フェイスアップという)、慣れてきたらレジ締め業務や発注業務もあったりで、ぬくぬく育った小娘にとってはお金を稼ぐことの大変さが身にしみて分かり、親の偉大さも痛感しました。

社会で働いている大人って、みんなすごいYO…

その後、結婚式場でもバイトをしました。

披露宴のホールで料理の配膳をするバイト。

初めてバイトに入った日、結婚式という厳かな雰囲気に感無量で配膳しながら泣いていました。

日常では味わえない、特別な雰囲気。

幸せそうな新郎新婦。

美味しそうな料理。

立ちっぱなしで体力的にはきついけど、でも心は割とぽかぽかで働けていました。(某コンビニのときは、心を無にしないと働けなかったけど、、、)

助産師の仕事と同様に、大変だけど人の喜びごとに付き添える仕事っていいなって思いました。

しかし厳しいところもあって、例えば結婚式が1日に2件入ってたりすと、タイムスケジュール的にバタバタで、1件目が終わったらすぐに片付け掃除セッティングまでしなければならず、時間との戦いでした。

学生のころって、そんなに時間との戦いって経験することなかったから、バイトをすることによって『時間の概念』の勉強にもなりました。

その他にもスーパーの品出しのバイトや、図書館の在庫整理など短期のバイトをしましたが、どれも看護とは全く違った業種で新鮮だったし、世の中には色々な仕事があるんだなぁと良い社会勉強になりました。

【まとめ】

オタク、世の中の厳しさお金を稼ぐ大変さを知る。

夫との再会、はじめての彼氏

ここからは恋愛事情を少し・・・(え?いらない?)

大学の体験入学のときに、学内を案内してくれた夫くん。(前回:生い立ち①参照)

入学してどこで再会したかというと、私がたまたま入ったサークルにいました。

福祉看護系の大学だったのでサークルも福祉系があって、私は友達に誘われて障がいのある子どもとレクレーションをするサークルに入ったのですが、そこにいたのです。

でも再会したとき「あっこの人、体験入学の時の人やー」くらいにしか思わず。

夫も新入生歓迎会で私のことを「お酒に酔って潰れて、すぐ寮に帰っていった子」くらいにしか思ってなかったようです。(よいこはマネしちゃだめだよ!)

しかも、夫は体験入学のときのことは覚えてなかったらしい。(チッ)

夫は1つ年上の先輩なのですが、はじめから先輩感覚なくて話しやすくてよく遊びにいったりしていました。

そういえば、付き合ってもないのに夫の家に1人でゲームしにいってそのまま寝落ちしてしまったこともあったし、2人でご飯に行くことも結構あったし、私のコンビニのバイト先によく来てくれていたし。

でも、まっっっっっっっったく恋愛感情はなかったし、なんなら夫は私の友達のことが好きで、その子と付き合えるように協力したりもしていました。(結局はフラれていたけど…ぷっ笑)

そんなこんなで、夫とは大学時代は『仲の良い先輩後輩』で恋愛関係に発展することはありませんでした。(なんやねん)

で、、、そんなオタクちゃんに初めての彼氏ができたのは、大学1年の冬。

またしても同じサークルにいた同級生のMくん。

穏やかで優しそうやし、顔がタイプやなぁ、かっこいいなぁとか思ってて。

話してみると、なんと店舗は違うけど同じ系列のコンビニでバイトをしていることを知って、一気に話が盛り上がり、そのとき使っていたガラケーの機種も一緒で、勝手に運命を感じちゃって。(テヘ)

でも、彼氏なんてできたことないオタクちゃんにとって、どうやってこの恋を進めていったらいいかなんて分からず…

そうこうしていたら、Mくんのほうもなんとな〜く私を気に入ってくれているのを知って、「え!マジ!どうしよ…」と焦る私。

とりあえずフリーズして待ってたら、Mくんの方から告白してきてくれました!(夜、誰もいない大学内で…青春かよ!Mくんありがとう!)

付き合ってすぐが私の誕生日だったので、Mくんは私に誕生日プレゼントもくれてすごく嬉しかった。

初デートは電車で1時間かけて、ショッピングモールに行ったり、学問の神様を参ったり、手をつないで本当に楽しかったなぁ…(今ではよき思い出)

しかし、別れはすぐ訪れました。

よく覚えてないけど、ある日「今日の友達との飲み会どうする?」って電話で話してて、「きついからお互い行かないでおこうか」って話してたのに、あとから私には内緒で行ってたのを知って、私がそれに怒ってしまい、そこから連絡を絶って別れてしまいました。

今考えたら、なんて短気だったんだろうと反省。もっとちゃんと向き合って、嫌だったこととかこうして欲しかったとか話し合えばよかった。

その後も2人の人とお付き合いしましたが、あまり長続きはせずで…

私はなかなか自分をさらけ出すことができず、人と向き合うって、付き合うって難しいなぁ、、、こんなんやったら一生かかっても彼氏とか結婚とか無理かも・・・と悟ったのでした。

【まとめ】

オタク、恋のすいもあまいも知る。

はじめての海外(カンボジア・タイ)

さて、海外にも興味があったオタクちゃん。(え、急っ)

実は小学校のころの社会の授業で、この地球上には食べるものがなく飢え死にする子や、家がない子や戦争に駆り出される子たちがいることを知ってショックを受けてから、「何か私にできることはないだろうか?」と子どもながらによく考えていました。

そんなときJICAの青年海外協力隊が、海外のさまざまな国や地域に支援しに行っていると知り、私もいつか医療分野で参加したなぁ〜と思っていました。

そして大学に入学してすぐ、青年海外協力隊に参加したことがあるA先生の話を聞く機会があり、オタクちゃんは興味津々!

A先生は地域は忘れたけど、数年間助産師としてその地域の母子保健に携わっていた話をしてくれて「かっこいい!」と感銘を受けた私。

そして、A先生が近々カンボジアにいる青年海外協力隊の知人を訪ねるということを聞き、「一緒に行かせてください!」と手をあげ、勢いあまってついて行っちゃいました!(フッ軽♪)

なんせ初めての海外旅行。

初めてのパスポート。

初めての国際線。

どれもが新鮮でワクワクドキドキ体験。

もう1人同級生と一緒に行ったから、2人で有頂天ホテル気味に。(落ち着け?)

でも、カンボジアに到着してから1番はじめに苦労したのは、食事が口に合わなかったこと。

お米はあったけど、独特の匂いがあって食べられず…香辛料たっぷりのスープとかも苦手で、料理店に連れていってくれたA先生や先生の知人にも申し訳なかった。

初めて日本を出て、生の海外の食事を経験して「ヤバい、食事が合わなさすぎる、、、海外協力隊とか無理かも。」とソッコー察してしまう私。(本当にごめんなさい…)

旅は1週間ほど滞在したのですが、A先生に付いて回って首都プノンペンの病院や看護学校、保健センターなど見学させてもらいました。

でも、まだ看護師の卵の私でも分かるくらい、ボロボロの医療機器やベッドにカルチャーショックを受け…市場のトイレの下水などもお世辞にも綺麗とは言えず、「公衆衛生的に大丈夫なのかなぁ。」と友達と話しながら回っていました。

あとで話をうかがったのですが、カンボジアはその昔クメール王朝時代は東南アジアの中でもトップレベルの国だったみたいだけど、1970年代からのポル・ポト政権の知識人絶滅政策』によって、医師などの有識者が大量に虐殺されて医療・教育が壊滅し、現代でも医療水準の低く問題になっているとのこと。

その象徴の『キリング・フィールド』いう処刑場跡を訪れて、気分不良になった私。

全く歴史を知らずにカンボジアに来たけど、こんな残酷な歴史があったとはつゆ知らず。。。

本当に撃沈、、、いや、今の私にできることなんて何もないんだけどさ、何も知らずにのほほ〜んって旅に来て浅はかやったなぁと。

どの時代、どこの国にもいろいろな歴史があって、現代に生きる私たちはそこから何かを学ばなくちゃね…と改めて感じました。(それにしてもお腹下すくらい体調悪くなった、、、)

でも!せっかくなので、観光らしい観光もしました。

ガイドさんに案内してもらいながら、シェムリアップ方面も観光。

世界文化遺産アンコール・ワットは、とにかく石・石・石!

暑い・暑い・暑い!(語彙力ほしい)

トンレ・サップ湖』は、まるで海のように広くて綺麗な湖でした。

ボートで湖を観光したのですが、そのボートを運転してくれていたのは、私よりも若い中学生くらいの男の子2人。「あれ?学校は?もしかして行ってないの…?」と思うも聞けず。

その観光の途中でも私のような小娘に、物乞いにくる小さな子どもたちがいてとても切なくなりました。

教育水準も低いままなようだし、もしあの子達が学校に行っていないのなら、早く教育を受けられるようになったらいいけど…と願うことしかできず。

それと同時に、大学まで行かせてもらって、こんなふうにカンボジアを観光できる自分は本当に恵まれていると実感しました。(親に感謝)

そんなこんなで初めての海外旅行は、食の違い文化の違いにカルチャーショックをうけながらも、A先生とJICAの協力隊の方のおかげで無事に完遂?しました。感謝!

そして、大学3年次にはタイにマングローブの植林に行きました。

きっかけはある日、テレビを見ていたらニュースで「ある植林グループが、今年もタイにマングローブを植えに行きました。過去にこのグループが植林したマングローブは、2004年に発生したスマトラ沖大地震の津波等の災害においても有効性が確認されています。」という映像が流れてきて、『あ、これ!行きたい!』とピン!ときたのです。

前回のカンボジアの旅と同様、環境問題や国際協力に興味を持っていながらなかなか行動できていなかった私は「チャーーーンス!」と思い、翌年嬉々として申し込んでいました。(食が合わなかったのに?笑)

もちろん、知り合いなんていないしドキドキしたけど、同年代の大学生が多く参加していたからすぐに打ち解けて本当に楽しかった!

あとから聞いたけど、この植林に参加するのは大抵の人が知り合いの紹介だったり、会社の事業の一貫として参加する人が多いみたいで、私のように報道をみて単独参加する人はいなかったようで、参加前の集まりでドンナ奴かヒソヒソされてたらしい、、、(こんな無鉄砲オタクで悪かったな!ガハハ!

タイはカンボジアの隣国。

だけどカンボジアとは違って、東南アジア唯一植民地支配を免れて独立を保った国だそう。

それを知って同じ東南アジアで隣り合わせの国なのに全く歴史が違うんだ…と思いながら、いざタイへ。

そこは『ほほ笑みの国』

ラノーンというところで現地の人と苗木を一本一本植えて行ったのですが、タイの人はみんな本当に温かかった。

私が「サワディーカー(こんにちわ)」というとニコニコ(^^)

でも、気温38度、湿度100%、無風、ぬかるんだ足元…

体力を削るには十分すぎる環境の中で、次第に暑すぎて意識が飛びそうになっていたところ、以前、日本に留学していたというタイ人の女性が「ヌアイマイ?(疲れ?)」と、話かけてくれてそのあとその女性とタイ語講座をかましながら、なんとか手を取り合いながら植林していきました。

「あ〜暑いけど、今本当にいい経験をしているなぁ楽しいなぁ。」と思いながらせっせと植えて。

そして、以前この会の人達が植えたマングローブ林も見に行って、ちゃんと根付いたマングローブを見て、私たちが今日植えた苗木もこれくらい成長してくれたいいなぁと思いを馳せ…

ボートに乗って移動する時は、左右に広がる壮大なマングローブ林に圧倒され、ここはジュラシックパークの世界かと思うくらいの景色に魅了され…

タイの人の温かさと、日本では見られない光景に感無量になる私。(でも首都バンコクは、渋滞が酷かったり、川にゴミが散乱していたり、、、まぁそういうとこもあるよね…)

植林のあとの食事会にて、会の偉い人が「私たちが植林していることは地球規模からみたらちっぽけなことだけれど、ただお金を寄付するだけではなくて実際に現地に出向いてそこの人たちと共に木を植えることで、日本からわざわざ植林しに来てくれたのだから大切に育てていかなければ…という現地の人の木に対する意識が高まり、今後も彼らがマングローブのお世話をしてくれる…云々。」という話を聞き、一緒に木を植えたあのタイ人の女性の姿を思い出した。

今後は彼女たちがマングローブの手入れをして、立派に根付いて育ってくれたらいいなぁ…

タイでの経験は一生忘れないし、楽しい仲間とも出会えて、本当に最高の思い出になりました。

そして、気になっていることがあったらウジウジせずに実際に飛び込んでみて、自分の肌で感じることの大切さを教わりました。

【まとめ】

オタク、海外を知りカルチャーショックを受けるとともに、日本の素晴らしさ自分が恵まれていることを再確認する。(東南アジアは暑い!周知の事実)

念願の助産課程に合格するも、泣いてばかりの日々

さて、大学生活を謳歌していたオタクちゃんですが、この大学に入学した本丸は『助産師』になること。

そのためには、大学3年次に100名いる学生の内、10名の選ばれし者しか入れない『助産課程』の選考試験に合格するしかありません。

私は本当に運が良く、晴れて合格!(多分、また面接で笑顔しか振りまいてない)

でも、、、本当に助産課程は、看護師のそれとは比べものにならないくらい過酷でした。(当社比)

幾度となく助産師なるの辞めようって思ったし、自分の不甲斐なさに撃沈したし、本当に死にたいって思うくらいキツかった。人の誕生のお手伝いをするのに死にたいって…どういうことや。

当時の大学は、大学4年間で看護師と保健師は学生全員、助産師は選考の人が国家試験受験資格をもらえるようなカリキュラムが組まれていました。

しかし、従来なら、

【看護専門学校3年】→【助産師学校1年】or【保健師学校1年】

みたいな感じで、助産師や保健師になるためには、それぞれ1年間みっちり勉強するのです。

それを私の大学では、4年次の半年で実習含めてすべての助産課程のカリキュラムを終了し、保健師の履修科目と実習も、3年次の間で履修するという超ハードスケジュール。

先生たちも、「こんな授業時間少なかったら教えることも教えられん。こんなレベルで実習には出せん。」と嘆いていたけど、でももうカリキュラムは組まれているし、待ったなしでやるしかない状態。(今ではこのカリキュラムの大学はほぼありません。だって無理ゲーすぎるから…汗)

助産診断学などの講義を2か月半くらいで詰め込んで、1ヶ月くらいは学内演習で、その後1ヶ月半は病院実習にて10例の分娩介助につくというホントに無茶なスケジュール

頭は全く追いつかないのに、次から次へと覚えないといけない知識は増える一方だし、知識だけでなく『分娩介助』という技術も身につけないといけなくて、助学の仲間みんなで夜中の2時まで大学にこもって練習したりしていました。

削られる睡眠時間、削られる体力、削られる精神衛生。(もっと頭よかったらな…)

病院実習に入る前の学内演習で、私はうまくできなくて精神的にも参ってしまって過呼吸発作を起こし、みんなに迷惑をかけることもしばしば。

当時、ペアになった子には本当に迷惑かけっぱなしで、申し訳なくて不甲斐なくて、でもヤル気もでなくて本当に負のループ。。。(Iちゃん、最後までペアでいてくれてありがとう!)

私があまりにも出来なさすぎて弱ってて、教授からも「どうしちゃったの!?」と心配されまくる始末。でも、助産課程は辞めさせてもらえなかった。(ぴぇん)

本当にこの半年は、今振り返っても二度と戻りたくはなくて過酷でキツかった。お風呂の中で、何度も今日こそは首吊ろうって思ってたし。(おいおい、大丈夫か!)

でも私は本当に運が良くて、「もう無理!」と思うたびに私を助けてくれる人がちゃんといてくれました。

病院実習の院長のN先生。産婦人科医なのに良い意味で医師っぽくなくて、まるで助産師のようにフリースタイルの分娩介助技術を教えてくれて、実習が終わる時「就職する時、うちに声かけて」って優しい声をかけてくれました。(あまりにも私が出来なさすぎて、うちで面倒みてあげよう的な?笑)

実習担当してくれたW助産師さん。夜中に分娩呼ばれて目が泳いでる私に、Wさんの夜勤分の食事をくれて、「ちょっと寝とき!」って布団で寝かせてくれて、「困ったらいつでも連絡してきていいよ。」ってメールアドレスを教えてくれて、助産技術を熱心に教えてくれるだけでなく精神面も支えてくれました。

継続症例のMさん(妊婦さん)。妊娠初期から関わらせてもらって、内診にビビる私をなだめてくれて、無事にお産が終わってからも家庭訪問させてくれて、上の子や旦那さん含めて一家で私を応援してくれました。逆に私が看護されてたって言ってもいいくらい。最後には「ponちゃんはいい助産師さんになるよ。私が太鼓判を押します。」って、嬉しすぎる言葉をかけてくれました。

高2の時の担任のN先生(私にここの大学を勧めてくれた先生:前回生い立ち①参照)。なんと、私が病院実習していたクリニックでたまたま出産していたらしく、実習中に4年ぶりくらいの再会!本当はもっとバリバリこなしている姿を見せたかったけれど、ヨレヨレで落ち武者のような姿を見せてしまい不甲斐なかった。けど、翌年の年賀状で「久しぶりに会えてponちゃんが頑張る姿を見れて良かった。自分が出産を経験して、医療の進歩によって安全に出産できることをありがたく感じました。その仕事をponちゃんがしていると思うと誇らしいです。」と、温かい言葉をかけてくれました。

大学のS教授。何度も泣く私を大きな愛で包みこんでくれて、励ましてくれて「本当によく泣いた半年間でした。でも、ponちゃんが助産師になってくれてよかった。助産師はponちゃんの天職だと思う。」って、また泣ける言葉をくれて卒業させてくれました。

実習担当のI先生。本当に出来なさすぎる私のサポートに困ったと思うけど、的確にアドバイスをしてくれてI先生なしでは実習できませんでした。「ponちゃんに出会ったのは、あなたがまだ大学1年生だった頃。ニコニコ笑う可愛いらしい子の印象でした。だから、そんなあなたが実習で苦しんでいるときに、どうサポートしたらいいか悩んだものです。でも、無事に乗り越えました。本当によく頑張りました。」と、当時の先生の苦労を吐露しつつ涙ながらに送り出してくれました。

そして助学の仲間…みんなキツイのに、みんな頑張ってるのに、私は1人落ちこぼれてみんなの足を引っ張ってるのに、誰一人として私を責めることなく「一緒に頑張ろう!」って励ましてくれてました。助学の仲間は今でも、私の宝です。大好きです。本当に感謝しかありません。

どれだけ私が沈んでいても、ちゃんと現実世界に引き戻してくれる人に恵まれて、当時は必死すぎて感謝もちゃんとできなかったけど、私は本当に人に恵まれました。だから、なんとか乗り越えられた。(ぶっちゃけるけど、記録は本当に書けてなかったのに卒業させてくれた…いけんやろ。)

そんなこんなで、地獄の助産課程をなんとか乗り越えたのでした。

【まとめ】

オタク、落ち武者のようになりながら、人に支えられてなんとか助産課程を乗り越える。(本当に感謝!)

運命の国家試験前に悲劇が・・・

さて、無事に?実習を乗り越えたオタクちゃんに待ち構えているのは、

ラスボス『国家試験!』

私は『看護師・助産師・保健師』の国家試験受験資格があったので、3日連続で試験を受けることに。

実は高校受験も大学受験も推薦入学だったから、今まで一般試験を受けたことなくて、ほんまもんの受験って初めてで、どう勉強したらいいか分からず…汗

しかも私は一期生だったから、試験について話を聞ける先輩もいなくて、無我夢中でレビューブックという分厚い本を片手に、ひたすら暗記→アウトプットを繰り返し。

いい感じで勉強も捗り「このままいったら3つとも免許取れちゃったり〜?」とか、ニマニマしていた2月のある日、母から一本の電話が。

「田舎のばあちゃん(母方の祖母)が、転んで頭を打って危篤状態になった。今すぐ病院に来れる?」と。

「えーーー!そんなん聞いてない!正月に田舎に帰った時、全然元気やったのに!」と思いながら、いそいそと電車に乗り込み、片道1時間以上かけて病院へ。

ベッドに横たわるばあちゃん。

緊急開頭手術を受けていたから、頭半分丸坊主。目は半開き。

手を握って「ばあちゃん。ponだよー!来たよー!」と言っても全く反応なし。

心のなかで「あっこれ、ヤバいヤツや。」と察し…

母はなんとか意識が戻って話せるようになるって信じていたようだけど、私は(いや、多分これはもう無理やない…)と冷静になりつつ、ばあちゃんのそばにいることしかできず。

まだ国家試験受かってないから看護師ではないし、でもそれなりの知識はあるけど、何も出来ない自分が歯がゆくて歯がゆくて…

そして国家試験2週間前、とうとうばあちゃんは帰らぬ人となりました。

その間、受験勉強もやっているようで身が入らずで、「あーーヤバいかも…」となりながら、受験当日を迎え、3つすべての国家試験を受けましたが、手応えがなさすぎて更に撃沈…

「多分、国家試験浪人やな…」と思いながら、合格発表を見に行きました。

そしたら、なんと・・・

3つとも合格していたのです!!(奇跡✨️)

きっとこれは、ばあちゃんが受からせてくれたんやな、、、とか

今年は診療報酬改定があって7対1看護体制の導入で、病院側も看護師がたくさんいるから当たり年やったんやな、、、とか(今までは10対1看護体制が主)

いろいろあったけど、運が良かったと思い・・・

だって、採点結果みたら、助産師は合格ラインギリギリ。

あと1点足りなかったら、助産師資格もらえなくて就職も看護師採用となって、お産に携われなくなってたと考えたら冷や汗が流れました。

本当に私は運が良い・・・

そんなこんなで、無事に『助産師』としての道を歩んでいくのでした。

【まとめ】

オタク、に恵まれて大学卒業&国家試験に合格する。(今振り返っても、本当にです・・・)

長文駄文にも関わらず、読んでいただきありがとうございました。

【次回予告】

〜へっぽこ助産師爆誕〜

読んでくれると嬉しいです♪

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